読書会と称していますが、本当は輪読会としたいところ。
だけどエアだし、とりあえず1人だし、しようがない。
気分だけ、そのつもりになってやっていくのさっ。(ややヤケ?)
図書カフェやまね洞になれば、小さめなテーブルで輪読会というか、ミニ研究会ができるかな・・・妄想は続く・・・
-閑話休題-
前回読み下したところをこんなふうに読んでみました。
★猫店主的現代文訳★
一、私のようなものは、経書(儒学の本)と史書(歴史書)とよっぽと縁が深かったのか、書き物に向かうと、いつでも、このうえもなく楽しいと思うのは、天から幸いをたっぷりいただいているのである。
およそ天がものをつくられることはいずれも完全なものはない。かれこれと満足できることはまれである。だから、こっちがいいということになれば必ず別のことは失われる。
例えば、花がきれいでうるわしいと実はよくない。実がおいしいものは花がうるわしくないといったようなものである。また、たくさん花びらがあるような花には実がつかない。
こうしたことから、才学ある人の多くは貧乏である。学があって、さらに裕福だというのであれば、いずれも満ち足りているという幸福である。これは得がたい道理であって、そのような人はめったにいないはずである。才学ある人が裕福で身分が高いという幸福が与えられるというのは、天から祝福されるところでとても難しいことであろう。
また、天がこのような人を貧乏で身分も低くして苦しくなさるのは、その人によって、その人の生まれ持った徳をみがいて、玉(宝石)にしようとされる道理もあるだろう。
才学の面で恵まれたなら、貧乏で身分が低いと、時流に乗っていないことをうれいてはならない。私のようなものがこのような愚かな心で、もし裕福で身分もあって、おごり高ぶって、なまけるようになったなら、文学を嫌い、人生に志なく、楽しみもないことになるだろう。だから、自分から進んで貧乏であることに甘んじて、裕福で身分の高いことをうらやんではならない。
一、書を読み、字を写すのに、明るい窓、きれいな机、そして、筆、硯(すずり)、紙、墨のとてもよい品質のものを手に入れて使うこともまた、人生の幸いの一つである。この楽しみを堪能できる人は少ないと蘇子美(中国・北宋の文人)が言っているのも、書生(学生)は貧しい人が多いのでこのように言ったのだろう。
また、貧しい人には明かりがない。昔だと、雪の反射光だったり、蛍の光を集めたり、壁に穴をあけたりして書を読んだ人もいるわけで、今、この6つ(窓・机・筆・硯・紙・墨)の助けを得て、さらに灯火(明かり*1)を多少なりとも使える人は幸いだと思い、できる限り一生懸命、書を読まなければならない。
★猫店主の一言(補足と感想)★
<用語的補足>
経書(けいしょ):儒教の基本的な本をまとめて差す言葉。四書(大学・中庸・論語・孟子)・五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)ほか。
蘇子美(そしび):蘇舜欽(そ しゅんきん)。1008-1048。詩人であり書家。
<感想>
何か・・・小さいころに聞いたというか、読んだというか、言われたという気がするような話じゃなかろうかと思ってしまいました。
でも、益軒本人がそこまで貧乏だったというような印象は持っていないのだけど。
確かに、ちょっといい紙とか、お気に入りの文房具を使うときって、テンション上がりますよね。
勉強に限らず、手紙のようなものをちょっと書くという場合でも、相手のことを考えつつ、どんな紙にどんな文房具で書こうかなと考えたり、選ぶというのはとても楽しい時間だと思います。
*1:ここは思い切って、行灯とか菜種油としてもいいかもしれない・・・。